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深上さん - 煙草とチョコレート

煙草とチョコレート



 訪れた喫煙室には先客がいた。
 喫煙室といっても、廊下の隅。通路側を仕切りで区切られただけのお粗末なものである。
 中にあるものも小さな机とパイプ椅子がいくつか。
 それぞれの研究室に禁煙の縛りがない所内では、あまり使われない場所だった。
 普段は数人の軍人たちで埋まっているのだが、今日は都合良く一人。
 それも、見覚えのある人間だった。
 ここではあまり見ない黒髪。
 椅子に座る気はないらしく、壁にもたれて煙をふかしている。
 深海景。
「珍しいね。君がこんなところで休んでるなんてさ」
 気配を感じなかったわけではないだろうに、その声で初めて気付いたというように男は顔を上げる。
「……君こそ珍しいだろう。エインズ。こんなところへ何しに来たんだ」
「ここは喫煙所だよ。することなんてひとつだと思うけどね」
 白衣のポケットから白い棒状のものを取り出して、パイプ椅子に座る。
 どかり、どさっという女性らしからぬ座り方に深海は眉を潜めたように見えたが、それは別の要素のほうだったらしい。
「君は煙草を吸うようには見えなかったが」
「煙草じゃないよ。シガレットチョコ」
 紙をめくってやる。
 中から現れたのは茶色の、良く見るお菓子だった。
 ぱくりとくわえる。
 舌で舐めれば、ほどよい甘さが口の中に広がった。
「なおさら此処に来る意味が分からない」
「深海、君は何のために此処に来るのさ。煙草なんて二の次だと思うけど」
 そこまで言って、男はこちらの理由を悟ったらしい。
 ああ、と呟いて、元の壁に背を預ける。
 いつ他の人間が入ってくるか分からない場所での喫煙など、一服の意味にはならない。
 落ち着いて味わえる場所なら、彼らは既に持っているのだから。
 そこを抜け出してまでこんな場所に来る理由など限られていた。
 すなわち、気晴らし。
「……自分の部屋だって言ってもね、煮詰まれば牢獄と一緒だよ。こういう場所の方が、意外と考えがまとまったりするんだよねぇ」
「まあな……。それにしても、君がこんな場所にいても彼女は気にしないのか?」
「ブリジット? んー……彼女も煙草の匂いは慣れてるし、あまり気にしないと思うけど」
 チョコレートを一口かじって、視線を薄汚れた天井から男のほうへ。
 背の高い男だったが、3分の1ほど椅子から落ちていたので表情が良く見えた。
 普段と変わらない無表情どころか、眼も合わせなかったが。
 見上げた瞳は、氷のような色をしていた。
「……君のとこは、って、そういえばあのカラスも一応吸うんだっけ?」
「そうだな。吸っているところは見たことがないが」
 確か服に匂いが付くとかそんな理由であまり吸わないのだと聞いた気がする。
 まったくありがたくないことに本人情報だから確かだろう。
 それを聞いて、ふと逸れていた瞳がわずかに寄る。
「そういえば、レイヴァーンは良く君の世話になってるらしいな」
「ああ。まあ、良く来るよね。つまらない理由で」
 黒い四枚羽根のキメラ。
 わかりやすいようで掴みにくいお調子者。
 彼女の言うつまらない理由に心当たりがあるのだろう。
 深海は呆れた顔で息を吐いた。
「言い聞かせてはいるんだがな……」
「君が言い聞かせたところで聞くようなヤツだったら楽なんだけどねえ。……でも、以前より減ったほうだよ」
 個人的に不快かどうかは別として、と付け加えてから思う。
 そう、確かに減った。
 深海景に出会う前のあの男は、もっとくだらない理由で医務室に訪れていたから手を煩わされることも多かったのだけれど。
 その頃に比べれば、今は本当に……。
 椅子を軋ませて、男の視線を捕まえる。
「……あたしより、君の方が迷惑かかってるんじゃないのかな?」
 なんでもないことのように言って、目を離さない。
「君、上層部に睨まれてるって噂を聞くけれど。それって君のせいなのかな。あのカラスのせいなのかな」
 戯れに訪れる軍人や研究員たちの噂話を聞き流しているわけではないし、ただ相方に自分の目を預けているわけでもない。
 何より軍医という立場上、相手にしているのは下位の軍人たちばかりではなかった。
 過去における実験体の隠匿に研究結果の改竄。
 風の噂とはいえ、上の人間が眼を付けるには十分な言葉が流れている。
 しかし、男にとってはそう意外性のある言葉ではなかったのか、深海は息を吐くようにして笑った。
「さあ、自分ではおとなしくしているつもりなんだがな。どういう噂かも想像がつかないが、悪い噂だというなら大抵はあいつのせいだろう」
 軽い言葉。
 だからこそ、ああそう、と笑みを返した。
 ……この瞳を、氷のようだと思ったのは間違いのようだ。
 この青は、蒼い炎の色。紅く派手な炎より、ずっと温度が高い。
 ぱきり、とチョコレートを折れる音を響かせて立ち上がる。
 まだ半分。もう半分。けれど今は、とりあえずそれだけ。
「まあほどほどにね。何かあったら治療ぐらいはしてあげるよ」
 大抵のことは自分で始末してしまうのだろうが、一応伝えるだけ伝えておく。
「……美人女医と噂のエインズワース博士にそう言ってもらえるとは、レイヴァーンに自慢できるな」
「言ってみなよ。たぶん別次元の自慢話が始まるだろうから」
 そうだろうな、と男は笑った。
 そのあと、他愛もない話をして男とは別れた。
 何気なく、呆気ない別れ。
 結局、深海景は彼女の手を借りることなく、事件を起こした後に相方もろとも処理された。
 彼女はそれを、噂ではなく間近で。
 青色の炎が消えるのを見ていた。
 余計な手は出せない。
 そんなことで彼女の日常は揺らがない。
 相方の女も苦しげに顔を伏せたのだけれど。
 彼女に出来ることなど何一つなかったのだった。
 ……けれどそれから数日。
 以前と同じようにくわえたシガレットチョコレート。
 喫煙室へは向かわず、未だ銃痕と血の跡の残るその廊下を通りかかって、立ち竦む人影を見つけた。
 思わず足を止める。
 癖の強い黒髪。
 白衣こそ着ていなかったが、見覚えのある後ろ姿。
 そんなはずはないと、よく知っているのに。
 咥えていたチョコレートを離して、思わず声をかけた。
「……、深海?」
 びく、と体を震わせて、青年はこちらを見る。
 驚いた。
 良く似ているどころか、同じだ。
 あの男よりあどけなさは残るけれど、顔の造形や体つきは同じものだった。
 うまく理解できずに目を瞬く。言葉が出てこない。
 迷って、探して、それで、違うと分かっているのに、同じ言葉を繰り返す。
「深海?」
 青年は困った顔で、きょろきょろと周りを見渡した。
 迷子の子どものようだった。
 何も見つけられずに自分のシャツを手繰って彼女を見る。
 なのに、何も言えずにうつむいてしまう。
 同じなのにそぐわない。
 あまりにもそぐわないから、少しだけ足が進んだ。
 近くで見れば見るほど同じなのに、違う誰か。
 じっと見つめて、質問を変えた。
「……深海景じゃないのなら、君は誰?」
 その名前に、青年が僅かに顔を上げる。
 景、微かに耳に届いた言葉。
 頼りなさげに声を揺らして、正面から見つめてくる、透き通るような瞳の色。
 彼女が炎だと喩えたその眼は濡れていたけれど。
 変わらない青色で。
「……明人」
 小さく、それでも意志のこもった声で答えた。
「あき、……?」
「……あきと。俺は、深海、明人……」
 確かめるように呟いて、くるりと青年は身を翻す。
 廊下の向こうへと走っていく後ろ姿。
 それをぼんやりと見送って、明人、と呟いてみる。
 知らない名前。知らない、誰か。
 ふと何か脳裏によぎるものがあったが、彼女は考えるのを止める。
 きっと、それはもう終わってしまったことだ。
 円環へと閉じゆく世界の、終わりのきっかけに過ぎない。
 あの男は、自分の意思を貫いて死んでしまったのだから。
 廊下についた傷跡。
 もう聞こえない足音。
 微かに残る、煙のにおい。
「……さようなら、深海」
 最後に一言だけ呟いて、手の中にあったチョコレートを口に運ぶ。
 ぱきりと響く、これがもう半分。
 短いとは思わなかったが、長いとも思えなかった甘い時間は、そうしてあっさりと消えてしまった。
***
***

誕生日に深上さんに頂いたものです。
ありがとうございます!
ありえた可能性のひとつの欠片は、白だったりそれとも青、あるいは赤。

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